赤城神社と司馬遼太郎

赤城神社の森と
戦車隊

 昭和二〇年(1945年)の夏−六月末から九月半ば−太平洋戦争末期、本土防衛のために戦車第一連隊が佐野に配備された。戦車七十七輌、装甲車二十一輌が神社の森や山麓に分散され、兵士約八百人は市内の七つの国民学校(小学校)の校舎の一部を兵舎として駐屯していた。
 赤城神社の森には、第五中隊の戦車十二輌、装甲車三輌が隠蔽されていた。
 兵士たちは、すぐ近くの植野国民学校を兵舎としていたが、その中にいた第三小隊長の福田定一少尉が若き日の司馬遼太郎先生であった。
 司馬先生はその作家生活の中で佐野をたいへん懐かしがり、多くの著書に佐野についての記述がある。
 佐野は、司馬文学の出発点と思われている。

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